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桜色の日々

カコバナ
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憎んだことがある

そんなに人を憎んだりしたことは今までなかったのだけれど
子供のころ一番憎いの両親だったし。

その話はいつかするとして。

大人になって、こんなに人を憎むことがつらいのか?!と
思うほど
憎しみは苦しみと同意語だった。

社交ダンスを習っていたころ、
ある時私より2つくらい年上の女性が
(名前を忘れてしまった・・・)
新しく教室に入ってきて、私に近づいてきた。
色が白くてかわいくて、ひと懐こい感じを受けた。

自分の話をよくする人で、
みせかけの謙遜があったかもしれないが、ほとんどが自慢話だった。
旦那さんがパチンコの釘師で給料をたくさんもらうこと。
自分は仕事をふたつくらいかけもちして優秀であるということ。
そして、旦那さんの帰りが遅いのでさびしいということ。

そして、プレゼント攻勢に出た。

パチンコ店の景品なのか?100円ショップで売っているようなものを
しょっちゅう私に持ってくる。
最初はありがとう、と言っていた私も辟易し始めた。

プレゼントすれば、友達になれると思っていたのか
休みの日には一緒に遊びに行ったこともある、
が、そこまで想いのない私にとってはかなり無理をしていたので
少しづつ避けるようになった。
忙しいと誘いを断ると、一転、彼女は私を疎んじ始めた。

友達の作り方を知らない女だった。

ただ愛すればいいのに、利用しようとした。
私は利用されたと感じたのではっきりと距離を置くようになっていた。

そうしたら、あることないこと嘘をつくようになったのだ。
ダンスの先生に私の悪口を言うようになった。
先生が明らかに彼女の味方をするようになり、
彼女は陰で舌を出しながら先生に
「○○さんが私をいじめた。」と言うようになった。

先生に
「私が信用できないんですか?!」と詰め寄ったこともある。

今まで何年も先生と信頼関係を築いてたと思っていた私は
打ちのめされた。

彼女はかわいい少女のような雰囲気を持った女性で
男性はついつい守ってあげたくなるようだ。

まだ30代だった私は、
自分の激しい感情をコントロールできなくなっていた。

売られた喧嘩なら買おうじゃないか、と怒りに変わった。

しかし、私の味方なんて誰もいない。
先生にさえわかってもらえたら、という私の願いも
徒労に終わっていた。

とうとう、彼女も精神的に追い詰められたようで
私に無言電話をしてくるようになった。
仕事中会社にかけてくる。
その頃、私しか出ない電話番号を教えていたので
平気でかけてくる。
自分の好意を無にされた、と思いこんで
私を憎んだ女のなれのはて。

今、どこで何をしているのかまったく知らないが、
あの憎しみの感情は
まぎれもない「嫉妬心」だった。

社交ダンスの世界は男性の先生ありきの世界だ。

先生に気に入ってもらうため、貢物をする。
お金がいるということだ。

そんな世界にもうんざりしていた。
もうどうでもよかった。
どうせ私はお金はない、だけどダンスの技術と
若さで先生のパートナーとして助手としての地位を守っていたつもりだった。
あっさりと貢物に負けてしまった。

私のポジションにつきたかった彼女。
でも、私が去ったあと、
興味を失ったようでした。
いつしか、先生を見放し、違う教室に移っていった。

そして、私もそんな先生を見限った。

社交ダンスへの強い愛も、ここで終わったのかもしれない。

憎しみからは何も生まれない。
生まれないどころか、自分の人生において
負の財産になり、
後悔の元となり、
その後の人生に教訓となることはない。

それから長い間、
そんな憎しみから離れて暮らしていることだけが救い。


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おだやかな新年

長い間、更新をお休みしました。
しばらく前の記事を読み返していたら
2010年に「地震」の記事を書いていました。

ハイチや北京以上の大地震がこの日本に起ころうとは。

http://thankyou50.blog.shinobi.jp/Entry/53/#comment

2012年の年末、
こうやっておだやかに新年を迎えられるということは
本当に幸せなことですね。
あたたかな日差しが冷たい風をやわらげてくれて
今日はいい天気です。

よい年が迎えられますように。


次のバイト

次のバイトは喫茶店だった。

割と大きなところで、ボックス席が6くらい、あとはカウンターも広かった。
なので、常時2人以上はいないととてもまわらなかった。

バイトは全員で4人、マスターはあまり店におらず、ランチの仕込みだけはきっちりしてあった。

そこで覚えたことは、まず接客、応対、そして喫茶店だからコーヒーの入れ方、ランチの作り方、だ。

マスターは、お寺の息子だったが、しばらく飲食店で修行をした人で、料理はお手の物だった。
メニューは、
「カツどん」「カツカレー」「焼肉定食」「しょうが焼き定食」「納豆ピラフ」「高菜ピラフ」「ナポリタン」「ミートソース」「ミックスサンド」などだった。

カツは揚げてある、カレーはできてる、焼肉も、しょうが焼きも、できていて冷蔵庫に小分けして入れてあった。

あとはごはんを入れてカツを卵とじしてごはんにかけるだけという、ごく簡単な作業。
だしも作ってあった。
この頃は、まだ、便利なものはあまりなかったので、たいていのものはマスターの手作りだった。

これらの作業で一番むつかしかったのは、サンドイッチで、パンにいろいろな具材をつめて切る、という作業だ。
パンに塗るソースも特製ソースで自分たちで作っていた。
だからたっぷり塗って、たくさん具材を乗せるともう大変。
柔らかいパンだとぐにゅうって身が出ちゃうのだ。

ナイフを手前に引きながら慎重に慎重に・・。
元来ものすごく不器用なので、最後までこれがうまくいかなかった。
パンにソースがついてきちゃなくなり、
指をなめなめお客にだした。
いいや、これで・・・。

カウンターの中も厨房も一人でやらなければいけないこともあり、ランチの時間はてんてこまい。
みかけを気にしてる場合ではない^^;

手早くどのくらいの作業をこなせるかが、若いバイトにとっては、
自分のモチベーションになっていた。

貴重な経験

催促の電話をすると、必ず、払えません、と言われる。
まあ、電話がつながることのほうが少ないのだけど。

一回、年配の人だったと思うが、
「返済のほうは・・・?」というと
「おたくの社長に言え、おら、もう死ぬけん、
首つって死ぬけん、そう言え。」

って言われても困る。なんて返事していいのやら。
ものすごく困った、死にはしないだろうけど、
死なれたら困る。

社長に告げると
「ほっとけ、そんなん。死にゃーせん。」
と言われた。

借りたもの勝ちなのか、
借りた人たちは、払えない、それがあたりまえだろうっていう態度だ。
みんながみんなそうだ。

たぶん、私でもそう言うかも。
あまりに金利が高いから。
でも、みんなその事に対しては文句は言わないのだ。
もちろん借りるときに説明を受けてるのだとは思うが、
総じて、金利に対する知識がなかったのだと思う。
あったら、借りない(笑)

そんなこんなするうちに半月が過ぎた。
あるとき、社長の娘が事務所に遊びに来た。
高校生でかわいくて、純真そうな子だった。

社長はもうデレデレ。
かわいくてたまらないようで、いっぱしの父親のような言葉を吐いてたので私はものすごくびっくりした。
この悪党が?娘にはこれ?
私は娘に、「お父さんはこんななんだよ。」と言いたくてたまらなかった(笑)
彼が仕事でたくさんの人を苦しめて、尚且つ汚いことをしてお金を儲けようとしていることを。

その事務所には、不動産屋や金貸しがしょっちゅう出入りしていた。
そこに大ボス的なオヤジがいて、
いつもその人を取り巻く形で、よいしょ軍団がいた。
大ボスはヨットを持っているらしく、お金持ちのする遊びが大好きで、
彼に取り入っておけば仕事も遊びもスムーズに楽しくやれるようだった。

傍で話しを聞くともなしに聞いている私は、
こういう仕事の裏側や、金融のおそろしさをじわじわと理解していった。

それでも半月もすれば限界に近づいていた、
そういうときやっと給料日が来た。

確か日当だったと思う。半月分の日当をやっともらえると思って楽しみにしていた。
そしてもらった給料。

中身を見て愕然!
言われていた金額と違う。
あまりに違う。
むちゃくちゃだ。

頭に血が上っている私は社長に聞いた。
「何故、言われていた金額と違うのですか?」

「はん?そんなん・・。何を言ってるんだ。」
と、こうこうだから少ないと説明を始めた。

まったく最初から聞いてなかったことだし、普通の人が納得する話しではなかった。
彼はとても私のことを誤解していたと思う。
おとなしい子だろうと。何も言わずにもくもくと働いていたので。

ところがどっこい私はそんなタマではなかった。
頭がくるくると回転して
「こりゃ、いい機会だ、言いたいことを言ってやめてやろう、言わないと気がすまない。」と思った。

悪態をついて「あなたがそんなんじゃ誰もついてきませんよっ!」
と言うと、反論してくる社長を尻目に
ドアを思い切り音をたてて閉め、そこを後にした。

なんにしてもお金をもらってからでないとやめられませんからね。^^

後日談、
そこの社長は詐欺罪でつかまった。
ご苦労さんでありました。
服役したのかは知らないけれど、罪を犯したことには変わりはなく
ほんとに早くやめてよかったと思うばかり。

まっとうな人間が損をする、なんて考え方は、本当に間違ってると思う。
人をだましてお金を儲けたり、
汚い手を使ってまで自分の利益をとるような人は
会社をやる資格はないし、
ましてや、サラリーマンでも出世はしません。

それからもうひとつ後日談がある。
今、現在勤めてるところの、仲の良い先輩女性がいるのだが、
なんとあの時の大ボスの娘だった。

大ボスの正体は、銀行のOBで手広く金融・不動産をやっており有名な資産家だった。
彼女もまた、父親から目の中にいれても痛くないほどにかわいがられており、
彼女のことは好きだけど、なんとなく複雑な気分になったものである。


サラ金のしくみ

今では、一般的に知られているサラ金の恐ろしさだが、
当時は、まだまだこの金融が全盛期で
町のいたるところに、ひっそりとしたサラ金がたくさんあった。

借りる、返せない、暴力団から脅される、
これはセットである。

帳簿を見て気付いたことがある。
それは圧倒的に借金をする人は公務員が多いということだ。

帳簿は何故か、職業別に分けてあった。
公務員か、サラリーマンか、その他か。

公務員でも、学校の先生、市役所の職員が主であった。

よくよく考えてみるに、この人たちが薄給だったというのはわかる、
けれどこういうところで借金をするというのは
最終手段なのである。
公務員は、ボーナスも給料もなくなることはないという甘い考えの持ち主が借りに来る。

どこからも借りれなくなって、仕方ないサラ金で借りるか、
と言って借りにくる。

当然、返せないのである。
何故なら、毎月の返済が利息だけでせいいっぱいだから。

高い金利を払うだけでせいっぱい、それに加えて払える人なら借りはしない。
例えば30万借りたとしよう、
毎月の利息が1万円くらいになる。
利息だけで。
計算方法も実にアバウトで、9500円だったとしても1万請求していた。

元金を返せる人なんていなかった。
当然、何日まで返すという契約があるので、
その日にお決まりのように催促する。
毎日毎日催促する。

私の仕事は催促の電話が主だった・・。

本当は返してもらわなくてもいいのだ。
だって延々と利息をもらい続けて、それで儲けているのだから。
明らかに違法であるが、
借りている人たちにそういうことはわからない。

今は弁護士に頼めばすぐに任意整理してくれるし、
広く、こういう町金融の知識が知られるようになった。
けれど、あの頃はまだまだ誰も知らず、
苦しめられる人は後をたたなかった。



バイト生活

田舎に帰ってからすぐに困ったのが、お金である。

そりゃそうだ、東京で3ヶ月も遊んでしまったのだ。
楽しい楽しい3ヶ月だった、
人生の中で例えるならバラ色の月日だ。

けれど、田舎に帰ったら現実が待っていて、数年間で貯めたお金は綺麗になくなっていた。
まず、自動車学校に行った。
これは再就職にどうしても必要な免許だったので
取得しなければいけなかったのだ。

それにはさしあたり現金がいる、
遊ぶ金もいる。
実家にはいたが、お小遣いなんてもらえる身分ではない、
小さくなってる居候だった。

まず行ったのが小さな喫茶店のバイトだった。
ほんとに数人入ればいっぱいくらいの小さなところ。

ランチの作り方を教わった。
ここのランチはすごく簡単なものだったので
なんなくできたが、お客が来なかった・・。

ママは忙しい人で、あまり店におらず、
店番の私はただぼーっといるだけだった。

それからしばらくして、
そのビルの2階にある会社でバイトしないかとママに言われ
あまり深く考えずにOKしてしまった。

が、しかし、ここはとんでもないところだったのである。

昔で言うところのサラ金だ。
社員はおらず、バイトは私だけ、

帳簿を一冊見せられ、
これにつけていって、とざーっとつけ方を教わった。
なんて帳簿だ・・。
見れば見るほど簡素な帳簿。
要するに個人の貸付の帳簿だったので、
名前と貸付金額と返済金額が書いてあるだけだ。

この会社は(と呼べるほどでもないが)
実に、私に、社会の裏で生きる人たちの実態を教えてくれた。

若者特有の正義感に溢れ、真っ正直で生きていかないと!と頑なに思い込んでいた私が
だいたいこんなところで働けるはずもなかったのだ。

不思議なしかも納得できない事

一番最初に就職した会社を退職したあと、
自分がなりたい職業はなんだったかな、と
少し、がんばってみようかな、と
職探しを始めた。

もちろん高卒なので、たいしていい就職口はない。
私が望んでいるのは出版社だった。

どんな出版社でもいい、編集者になろうなんてぜいたくも言わない。
ただ、そういうクリエイティブな仕事に立ち会ってみたかったのだ。

そして見つけた一件の会社。
まだ20歳の私は、そこがどういう会社であるのか、書類上だけではまったくわからなかった。
とにかく新聞の出版だということだけわかっていた。

他に探してもなかなか見つけられないので、とりあえずここに就職し、がんばってみようかな、と思った。

さて、あれは渋谷だったか、どこだったか、もう場所も忘れてしまったが、割と都内の真ん中にあり、周りはセンス溢れる都会の街だった。
けれど、行ったところは、なんとなく淋しいうらぶれたビルで、
その一室に事務所はあった。

「学術出版社」と書かれていた。
たぶん、もうないと思うので名前を出しても平気だ。
出してる新聞は「学術新聞」小さなサイズの8面くらいの新聞だった。

内容は@@)私などにはさっぱりわからない記事ばかり。
要するに、学術というくらいだから、大学の先生、病院の先生、学者、などが購買層だったらしい。

記事もわからなければ、ここの人たちが何をしているのかもさっぱりわからなかった。
みんな何をしてるんだろう・・・。

社長は?社長は、面接のあと、数回顔をみただけで、全然出社してこない。
聞けば「うちの社長はここは趣味で経営してるのよ」と言う。

私には趣味で会社をするという意味もさっぱりわからなかった。

そして私に与えられた仕事は、その新聞の宛名書きをし、郵便局に持っていく事だった。
それ自体は別にイヤではなかったが、毎日毎日同じ事をさせられた。

それに納得いかなかったのは、宛名が名簿があるわけでなく、電話帳を見て書かされることだった。

今、考えればよくわかる。
そういうふうに無作為に送りつけて、あとで請求書を送るというやつだ。
しかし、その頃は誰に聞けるわけでもなく、もくもくと言われるがままの仕事をこなしていた。


そのうち、だんだんフラストレーションが溜まってきた。
これは・・このままでは困ったことになるかもしれない・・。

優しい先輩だったのだ、二人の先輩が私をお昼に誘ってくれた。喫茶店に行き、ランチを食べながら話しを聞いた。

「あなた、この会社、何か変だと思うでしょ?」
「求人票にはボーナスもあるって書いてあったでしょ、でも出たことないのよ。」
(それは困る・・・)
「ここにいてもろくなことにならないわよ。」
「私たちも来月やめるつもりなの。」
(えええ~っ@@)
「悪いこと言わないからやめなさい。」
(えええ~っそうなの?@@)

私に選択の余地はなかった、好意の忠告をきかないわけにはいかない。

すぐに翌日から行くことをやめ、会社には電話し、
「すみません、退職します。」と告げた。

驚いたことに長くいたような気がしたが、一週間しか経ってなかった。
優しい先輩社員のおかげで一週間分の給料もきっちりいただくことができた。
これだけは嬉しかった。

就職だったが、バイトと同じだ。たぶんまだ社会保険も入ってなかったと思う。

このたった一週間の経験は私にいろいろなことを教えてくれた。

社会は甘くない。
甘くないけれど、利口になれる。
私はこうやってどんどん利口になるんだ、と思った。

バイトで得たもの

一番最初のバイトは高校3年生の冬休み。
高校生ではバイトは禁止されており、冬休みにやっと許可がおりるのだ。

友達と二人で行ったところは花屋。

小さな小さな花屋だったけれど、年末だったのでものすごく忙しかった。
店は露店で、戸なんてなくて、ふきっさらし。
小さなストーブはあったけれど、ないも同じ。

いい花屋さんのようにケースなんてないので、花のために熱は厳禁なのだ。
花は重い。
重い花束を山のように抱えて店まで運ぶ。
そしてやることは、バラのとげ取り。
痛い!冷たい!


数時間、そんな冷たい作業をし、やっと店番から開放されて帰途に着く、そんな日々が5日間。
たった5日間です。

それなのにとてつもなくたくさん働いたような気がしたなあ。
そしてもらった金額が5000円。
二人して愕然としました。

一日1000円。
1時間200円×5時間。1000円。;。;)

昔だから、と言うなかれ、
あんなに重労働してこのくらいの金額なのか、と
社会の厳しさを教えてもらった。
生まれて初めての労働。

だから、18歳から働き始めたときも、
ほんと少ない給料も、なんとも思わなかったし、
日本一物価の高い東京で節約生活を続けることができ、
そうだ、
あれが良かったんだ、と今更思える5日間のバイトだった。

それからバイトなんてすることはないだろうと思っていたのに、
何故か、数年後には又バイト生活が待っていたのだ。

つづく。


恋のひとつの話

もういくつめの恋の話になるのか。
けれど、この恋はいつもの恋と少し違います。

それは何故か。
唯一、自分から好きになったのではないからです。
言い寄られて、押しにおされて付き合うようになりました。
それは始めての出来事だったのです。

私はもう30を超えていました。
若くないけれど、異様になんだかモテた時期だったのです。
ですから、まるで女王様のような気分にさせてくれる
その男性に対して傍若無人に振舞っていたかもしれません。

5つくらい年上だったと思います。
はっきりは覚えていませんが、なにせ、自分から好きになってする恋とほんとに勝手が違ったのです。
私は彼の誕生日を覚えなくてもよかったし、
自分からデートの誘いをしなくてよかったし、
お金も払わなくてよかったし、
どこに行くにもいい車でお迎えでした。

けれどよく飲む人で、いつもデートはスナックなどの飲み屋さん。
夜のデートは私のカラオケの稽古のようなものでした。
歌うと彼はご機嫌だったので、
いつもふたりで歌ってました。
ものすごく歌がうまい人でした。

彼は、地元では有名人で、イベントの司会など頼まれてよくやっていました。明るくて、楽しくて面白くて素敵な人でした。

自分で商売をしていました、
中古車販売です。ふたつお店を持っていて、いつも行き来していて大変そうでしたが、
忙しい毎日の合間を縫って私たちはデートを重ねました。

彼はとてもいい人でした。
気の小さな優しい人でした。
私との結婚を望んでいたようでした。

けれど・・、彼は妻帯者だったのです。
もう家にはほとんど帰らず、実家に寝泊りしている状態でしたが、
かわいい6歳になる子供もいたのです。

そして更に、彼は再婚でした。

一番最初の結婚は19歳のとき。
そこで娘が生まれましたが、すぐに離婚。
娘のことが気になりながらも、彼はその後勤めていた会社をやめ
実家に帰って、商売を始めました。

それから商売が軌道に乗り、2店舗を構えるまでになりました。
けれど、
何がいけなかったのか、
彼の性格か、
おぼっちゃん育ちの甘えか、
再婚して息子ができてもすぐにうまくいかなくなったのです。

そこで私と出会ったのです。

けれど、私は他にも付き合っている人がいました。
浮気?
違う?
情にほだされて?

あまり自分の感情がわかっていなかったような気もします。
けれど、押されて付き合ってる、という意識のためか、
彼にのめりこむことなんて到底できませんでした。
まして妻帯者、遊びと言われればそれまでで、
恋とは呼べないものだったかもしれません。

彼は年下の私にいろいろな相談をしてきました。
最初の妻の娘が、会いたいと言ってきてるが、
今の妻が許してくれない、会うべきか、否か、なんて。

そんなこと私に相談されても、と思いましたが、
こう答えました。
「会いたいなら会えば。」

気持ち次第ですよね。
誰に許されなくても、親子なんですから会いたければ会うといいと思います。
彼は奥さんを怖がっていました。
けれど、子供はとてもかわいかったようです。

付き合うにつれ、彼は離婚をしたがっていて、
それは私と結婚するという約束の下に実行したいと思ってるようでした。

それはご勘弁を・・と心で思っていましたが、
ずるずると押しに負けて付き合っていました。

私が原因で離婚をする?
冗談ではありません。
そんな役回りはごめんです。
第一息子がかわいそう。
なんとか離婚を思いとどまらせようと思いました。

それには、別れるしかない、と思ったので、
彼を呼び出し、手を握りこう言いました。
「ねえ、もう友達にならない?」

彼はすごくすごく驚いて、
今にも泣き出しそうな勢いで「いやだ」と言いました。
けれど、いろいろと話をして私の決心が変わらないことを知ると
「友達にはなれないから」と言って去っていきました。

とてもかわいそうに思いましたが、仕方ありません。

それからの彼の消息がとても気になりました。

けれど、彼はすぐに再婚したのです。
私と別れてから2年もたたないころです。
自分の店を移転してそこに住まいを作っていましたが、
そこに子供を抱いた女性がいたのです。
まだ1歳未満の子供でした。

よくよく計算してみれば、私と別れてすぐに付き合い始め、結婚し、子供を作ったとしか思えません。
愕然としました。
離婚してしまったのか。
どっちにしろ離婚して、自分の寂しさを埋めるために結婚し、又子供をつくったのか・・・・。

寂しい人だったのです。
孤独が嫌いな人だったのです。
わかってはいたけれど、弱すぎる・・。

それから何年たったでしょうか。
たぶん2年くらいだったでしょうか。
いきなり彼は失踪したのです。

商売をだめにしたのです。
狭い田舎ですから、すぐに噂は広まります。
実は私の会社とも少し取引があり、売掛金が残されていました。

私は実家に電話してみました。
お母さんが出られて、
「知りません!」の一点張り。
「そんな人はいません、私は知りません!」と言い張られました。
まだ幼子を連れた奥さんはどうしていたのでしょう。
本当にかわいそうなことでした。

それから以後、彼の消息は知れません。
いったい、今どこで何をしているのでしょうか。
残された3人の子供たちはお父さんをどう思っているのでしょう。

弱くて情けない男、
そう思えばそれまでですが、
一時でも彼の人生に関わった私は、
いまだに彼のことが気になり、又、いつも思い出しています。

 

私の後輩

私の職場にいる後輩女子のことだ。

彼女は言葉の使い方がよくわからない。
特に13歳くらい年上の私に向かって、どうしゃべっていいかわからないようだ。

けれど、よく考えると彼女ももうおばさんの部類だ。
言葉遣いが云々という歳ではない。

たとえば、
「(りん)さんは(外出先から)今日は何時に帰ってこられますか?」と聞く。
「何故?」と聞き返す。(当然そのときにならないと時間がわからないから答えようがない)

「私、免許更新に行きたいんです。だから何時に帰ってこられるかなと思って。」
「それって何時でもいいんでしょ?」
「はい。」
「・・・・・・・・」

じゃー、何故私の帰ってくる時間を聞きたいのだろうか・・。
私の頭の中にはそういう疑問が沸き起こっているのだが、
彼女には、何故私が「・・・・」となっているのか皆目見当がつかないようだった。

では、その件を人に伝えるためにはどう言ったらいいか?

「すみません、私、今日免許更新のために外出したいのですが、(りん)さんが帰ってこられたらでかけたいと思います。」

と、こう言えば済む。


朝礼のときに社長が「私は明日、○○のために現場に入っているので一日外出になります。」と伝えられた。
そして次の日、夕方ごろ、とうとう彼女が言った。

「あの、社長は今日はどこかに行かれてるんですか?」
「?!」
「昨日、朝礼で言われたよね、聞いてなかったの?」
「・・・・・」

まったく聞こえていなかったか、聞いていたけれど忘れたか、
どっちかわからないけれど、
彼女の頭の中からその記憶が消去されていたことは確かだ。
それも夕方になって初めて所在を聞くというのは
とりもなおさず、私が怖いから^^;

いつもびくびく怯えている。
私は怖い?^^;

優しい先輩になるのはとうにあきらめている。
かといって、厳しい忠告も必要ないと思っている。
なぜならもう40だから。

・・・・・・・・・・・・・・☆☆

後輩女子へ

自分で考えて自分で判断してください。
すがるような目で私を見てもだめです。

パソコンでエラーが出たからと言って、いちいち私に聞くのはやめてください。無視します。

私はあなたの教育係はとっくの昔に降板しています。
もう入社してから何年たつでしょう。
小学生の息子の話をするのはいいけれど、
自分は友達がいない、友達をどうやって作ったらいいのか?と私に聞くのはやめてください。
子供だけに頼りきって生活していて、この子は家から出したくない、と言うのはいいけれど、
周りがあきらかに引いているのを察してください。

そういう相談には乗れませんから~~!

相談員

総務という仕事をしている関係上、
職安にはよく足を運ぶ。

そこで、いつもいつも思うのが、人の多さだ。
それだけ失業者が多く、たくさんの人が失業保険をもらっている。
財源はたまったものではない。
私たちの支払う雇用保険ではきっと足りていないだろう。

全国的な不景気でますます失業者は増えるばかり。

けれど、人手は足りてないのだ、どこも。
ただお金がないので雇えない。
機械化したから人員が減らせて、儲かった~という企業がいたら紹介してほしい。
ものすごく縮小しないとやっていけなくて、いずれつぶれていく、そういったところが多いのではなかろうか。

企業は人なり、とよく言うが、
機械では企業自体はよくならない。
経費が助かる、というのは気のせいだ。

社会保険を払わずに(払えずに)失業保険をもらっている大勢の人々。
その人々の就職相談に乗っている相談員の話である。

たぶん想像だが、彼らの多くは、お役所からの天下り。
とても偉そうだ。
えらいか?といつも心で思ってその態度を観察している私である。

庶民のそれも生活苦にあえいでる人たちの話を親身に聞けるのは
天下りのおっちゃん、おばちゃんではだめだ。
相談員こそ、リストラするべきである。

誰だって環境の整った、快適な職場で働きたい。
けれど、少し身体の弱い人、見た目にはわからない心身症の人、
身障者ではないけれど、極端に目が悪かったり、
いろいろな身体のことで、思うような職につけない人々。

健康ですか?と面接で聞かれる。
いいえ、不健康です、と言える人はいない。
働き出して不都合が出てじきにやめざるをえなくなる。

相談員に必死にくいさがってる一人の女性をみた。
「私は目が悪いんです。細かな手作業ができない、それでも、身障者手帳を持っているほどではないので、認めてもらえないんです。どうしたらいいんですか? 
みんな陰で作業の遅い私の悪口を言うんです。
たまらないからやめました。
どこか私を雇ってくれるところはありますか?」

相談員は何もいう事ができず、固まっている。
「あーそうですかー。あー・・・」と言ってるだけである。
おなかの中では「そりゃむつかしいわ。」と思ってるはずである。

もっと中小企業を渡り歩いた、経験豊かな中堅幹部あたりの人を相談員にするべきだ。
きっといろんなアドバイスができることだろう。

企業側が求人を出したい、と思うような方向に話をもっていくこともできるだろう。
それこそ営業手腕がものを言う。

高いお金を払って、公務員の天下りの相談員を職安においておかないで欲しい。
変わらずにボーナスや給料をもらっていた人にはわからない。
失業保険をもらいに職安に来たことがない人には、
そのつらさはわからないのだ。

今の日本の問題点のひとつは、失業者が多いということである。
社会保険税、所得税、地方税と払わなければいけない税金を払ってない人があまりに多いからである。

面接のためにスーツを万引きした男がつかまったが、
そういう貧しい国なのに、
面接にスーツを着なきゃだめだ、という企業や、相談員がいるのだ。

私は女性だし、守る家族もいないので、のほほんとしているが、
大黒柱である男性が、失職したらどうなるか、
考えただけでもそら恐ろしい。

私の意見は的を得てないかもしれないが、
まあカンベンして欲しい。
自分が職を失った時のことを想像すると恐ろしいのだ。

大地震

今、ハイチ共和国は大変なときを迎えている。

国として今から復興を期待されていただけに打撃は大きい。

地震は天災である。
これはいかんともしがたい。

日本だって同じだ。阪神淡路大震災は記憶に新しい。

何故、ハイチが人事に思えるだろうか。

何故、日本政府の対応が遅いのか。

お金さえ出せばあとはもう、アメリカに任せましょう。
ってことなのか?

私はかつて東京に住んでいたときに、たくさんの小さな地震を経験した。
今住んでいる地域は極端に地震が少ないところだ。
だから、東京にいるときの地震は頻繁で、
「死ぬときは地震で死ぬのでは?」という予感めいたものがあった。

今考えれば、地震で死ぬなんてことはめったに起こらないことだけれど、
それでも可能性はむしろ昔よりも現在のほうが高い。

一回経験した大きな地震は、昼間で震度5くらいだったと思う。
7階建てくらいのビルの4階に会社があり、
しかも、坂の上に建っていたので、片方は鉄筋の支柱がありビル全体が支えられていた。

すごく揺れて、ビル全体が大きく揺れて、ゆさっゆさっという感じだ。
しばらく揺れが続いた後、止み、又何回か揺り戻しがきた。

みんな、きゃーきゃー言いながら、机の下などに隠れたが、幸いけが人なども出なかった。

ただ、部屋の奥にあった、伝票などの消耗品を入れてある棚が倒れ、側に人がいたら危ないところだった。

アパートで寝ていると明け方によく地震が起きた。
一番熟睡しているころである。
「あ!地震だ!」とすぐにわかるのだが、身体が起きない。
なので、
「箪笥の上においた、何かが落ちたら起きよう。」
「あの上に確か飾り物があったからあれが落ちたら音がするだろう。」
と思いながら寝たままの状態だ。
だいたい家具がないので、基本的には危なくない。

しかし、頻繁にあるので、
「私はこのまま東京にいたら地震で死ぬだろう。」と思っていたのは
仕方ないだろう。

けれど、今住んでいるところは反対に地震慣れしてない人ばかりなのでパニックを起こしやすい。
地震が起きたとき、冷静になれて、
最初に何をするべきか、とっさに判断できるかどうかが生死の分かれ道なのだ。

怒れる地球がいったいどれくらい、人間を許して住まわせてくれるのだろうか。

20歳の誕生日

そんなこんなで、苦しい恋の日々を送っていた私。

このままでは自分の気持ちに区切りがつかないと思って、
思い切って告白することにしました。

おりしも自分の20歳の誕生日が近づいていたので
この機会にと思い、
ねだって、家まで送ってくれと彼に頼みました。

家までの10分くらいの道のりを歩きながら、
彼にこう言いました。

「恋人がいることはわかっているけれど、やっぱり言わなくちゃと思って・・、ずっと好きです。」

と。

そうすると彼はこう答えました。

「ごめんね、妹みたいに思ってるよ、何でも相談してね。」
と。

心の中では「けーっ!妹かよっ!」って悪態ついてたような気がしますが、
気持ちは伝えたのですっきりしました。
これで前へ進めると思ったのです。

残念ながら、それから本当に疎遠になっていきました。
彼らが学校を卒業したこともあり、
一緒に遊ぶこともなくなってきたからです。

それより以前に、一回、彼の恋人に田舎の甘夏を送ったことがあります。
何故かはわからないけど頼まれたからです。
食べてみたいと。

それで送ったら丁寧な手紙が彼女から届きました。
彼女なりの、牽制だったと思います。

とても丁寧な字で、大人の賢い女らしく、
お礼が綿々と綴られており、Kをよろしく、と書いてありました。

一回もお会いしたことのない彼女でしたが、写真は見ました。
とてもキュートでほんとうに「負けた!」と思う女性でした。

未練はありませんでしたが、後遺症は長く続きました。
誰にも愛されずにこのまま歳をとるんだろうか?という不安。

誕生日にふられた私は、何ヶ月も暗い20歳を過ごさなければなりませんでした。

楽しくも苦しい日々

なんといいますか、
恋は苦しいものですね。

想いがつのってどうしようもないけれど、それを表に出すことは許されませんでした。

この5人に加えて、時々参加する2人がいて、夏休みには一泊で旅行することになりました。

初めて好きな人と長い時間一緒にいられる、
最初はその想いで嬉しくて嬉しくてだったのですが、

そこにKさん(仮名)の彼女の妹が参加することになりました。
これにはびっくり。
まだ17歳です。

いまどきの高校生、髪を金髪に染めて、
ただただ、お兄ちゃんお兄ちゃんと、Kさんにべったりなのです。

特に私に対して敵対心を燃やしていたのか、
私の様子を窺いながら、彼にまとわりつくのでした。

「私のお姉ちゃんの彼氏なんだからね、取らないでよね。」
そう言っているようです。

けれど、私の目には、お姉ちゃんの彼氏というより、彼を想ってる女性にみえました。
私に対して激しい嫉妬心をあらわにしていました。

Kさんの恋人の妹、という立場で甘えまくる彼女を見て、
どうしようもない思いで憎しみさえ湧いてきたほどです。

そんな複雑な思いで、過ごした2日間。
それでも忘れらないものとなりました。

山の上で見た、降る様な星空。
天の川がこんなにはっきり見えたのは初めてでした。

いろんな風景がフラッシュバックし、いろんなことが思い出されますが、
この日を境に、
それまでのようにフランクに、仲間とふざけながら過ごすことができなくなってしまいました。

ファーストキス

18で上京するまで、男性と手をつないだこともなかった私。

けれど、上京してからは、箍がはずれ、
性格が180度変わりました。
上司からは大切にされたし、思う存分仕事もできたし、
自分も社会に必要とされてるんだ、という意識が私を変えたと言っていいでしょう。

男性にも積極的になりました。

飲み仲間とその時は4人だったと思います。
飲みすぎて、雑魚寝をしていました。
みんな気持ちよさそうに寝ています。

私はといえば、彼の隣に寝ていました。

少しづつ、わからないようににじり寄っていったかもしれません。
よく覚えておりません。

すぐ近くまでいき、どちらともなく寄り添って寝ていました。
若い男女がそんなことしたらどうなるか、なんてもちろんわかっていましたが、
彼の方からキスをしかけてきました。

もちろん、ファーストキスです。
夢見心地でした。いまさらこんなことを言うのもなんですが、
書いていてとても恥ずかしいです。
あの時の喜びがよみがえってくるからです。

どのくらいの間だったか、相当長かったように思います。
仲間はとうに気づいていました。
寝てなかったのか~・・。

「いいかげんにしろよ、おまえら」という声が聞こえました。

そこで離れてしまいましたが、
私はもうふらふらでした。

けれど、その日から本格的な地獄の日々が始まるのです。

横恋慕という言葉がずっと頭の中にあり、
けれど、初めての恋をあきらめられるはずもなく、

彼は、恋人がいながらもちろん、私にも好意を持っていてくれているのはわかっていました。
けれどそれが苦しいのです。

突き放してくれたら、そこで終わっていたものを。

その頃は、男性のずるさ、など微塵も思っていませんでした。
ただただ、横恋慕した私が悪いのだ、と
苦しく、寝てもさめても苦しい日々が続いたのです。

初恋

初恋はいつ?
などと聞かれても、はて、いつだったっけ?
と思うものですよね。

はっきり憧れと恋との区別がつかないんですもの。
片思いは初恋ですか?^^

とすれば19歳のとき。

社会人になって、ようやく男性とも違和感なくしゃべれるようになってきたころ。
同級生が近くに住んでいて、いつもそこをたまり場にしていた男子3人。
そこに私と彼女が2人加わって、ほぼ毎日飲んでだべってました。

彼らは専門大学の夜間に通っている学生で、学校が終わってから金がないので家飲みです。
飲むものはたいてい、ウイスキー。安いウイスキーを買ってきて水割りにして飲むのがほとんど。

私はそこでウイスキーの味を知り、タバコの味も知りました。
まー酒乱もひとりいて、お酒ってこんなに人を変えるんだ、ということも学びました。

楽しかったですね。
TVもないし、今のようにビデオもないし、ただ、しゃべって飲むだけなのに、なんでこんなに楽しいんだろ、って思いました。
愉快な仲間って感じで、いつも笑いころげてました。

その中の一人の男性。すでに23歳という年齢だったのですが、笑うと前歯が出てねずみのようで、ものすごくかわいかったのです。
よく笑う人でした。
そして包容力があってあったかい人でした。

だけど、そんな彼に恋人がいると知ったのはショックでした。
いるだろうなあ、そりゃ、いるだろうなあ、とは思いましたが、
恋しい気持ちは止められません。

仲間としゃべって飲んでそんな関係に満足はしていましたが、
私の恋心は隠せないまでになっていて、
仲間が警戒し始めました。

まずいぞ、まずいぞ、早くあきらめさせにゃ、
そういう感じでした。

名物上司

最初に入社した会社で、直接の上司だった部長がいました。

あとは、男性が5人、女性は私ひとり。

いろいろとみんなにかわいがってもらったりしましたが、
特に部長にはお世話になりました。

その頃はまだ40代だったのに、すでに会社のNO,3でした。
切れ者だし、面倒見はいいし、
酒に呑まれてぐだぐだになるし、
わけのわからない事を言い出して怒鳴るし(笑)

でも、最後にはにこっとわらって「なっ?^^」って言うのです。
愛らしいブルドッグのような顔で。

ちゃきちゃきの江戸っ子で、べらんめえ口調でいつも大声出してました。
元気よすぎるー部長!

そんな部長はいつも大きな人で、
会社のことを一番に考えていました。
私が所属する部が、売上が伸びず、企画も行き詰っていました。

全体や将来を見据えて、今から何をするべきか!を考えていかなければならない時期だったのです。

それが今いる5人では、切れ者の部長の影に隠れ、どうしてもジリ貧状態から抜け出せないでいたのです。

そうこうするうちに、部が解散されることに決まりました。
それぞれみんな、商品課や、店舗に移動になり、
私も本社内での営業部に所属することになったのです。

私は部のみんなを愛していました。
全員大好きな人たちでした。

離れて仕事するなんて・・・、という思いで
勢いで会社をやめることになってしまったのです。

部長からは思いとどまるように言われました。
「これからお前を使おうと思っていたのに」
というありがたい言葉もいただきました。

その言葉があったから、職場を移っても自信をなくすことなく仕事が楽しくできたのではないかな、と思っています。

そのあと勤めた会社を退職した後、田舎に帰ったのですが、
その会社も随分たってから、大阪に支店を出したので勤める気はないか、と話しがきました。

何年もたって、思い出してもらえて、又使おうと思ってもらえるなんて、
ほんとにありがたいことだと思いました。


名物部長はその後、どうされたかというと、
なんと代表取締役に出世しました。
まだ50をちょっとすぎたころです。
社長を数年やり、突然退職しました。
55歳くらいだったと思います。

私はもうびっくり。
退職して何をするのかと思っていたら、
なんと悠々自適に遊んでいました。
たぶん、事務所を作っていたのでコンサルティングのような仕事をされているんではないかなと思いながら、
話しをきけば、蕎麦を打ってるとか、
そいうことしか言いません。

ユニークで、洒脱で、粋な部長は、
今もぐでんぐでんに酔っ払っては、まわりの人を困らせて、
愛らしい笑顔を振りまいていることだと思います。^^





何故格闘技が好きなのか

これはあんまり真剣に考えたことがありませんが、

男性が格闘技に燃えてる姿がとても好きなのです。

最初に好きになったスポーツは「ラグビー」

これはどう見ても格闘技ですよね。アメリカンフットボールのようにプロテクターをつけてないし、
肉弾戦です。
生身で身体をぶつけ合う姿に興奮してました。

それから好きになったのは「空手」です。

これは好きな先輩が空手部のキャプテンだったので^^。

それから「プロレス」。父が大ファンで小さい頃から否応なしにプロレスは見ていました。
(すもうはちょっと・・。お尻があまり好きではなくて・・)

映画俳優で言えば「ブルース・リー」に「ジャッキー・チェン」をお決まりのように経て、
今は「ジェット・リー」

最近まで付き合っていた人は、少林寺憲法6段でした。
おじさまが道場をやっていて、後継にならないか、といわれたのですが断ったそうです。

本人はキックボクサーになりたかったようです。

そうです、「キックボクシング」も好きでしたね、今は普通の「ボクシング」が好きです。
ボクシングの殴り合いを見るのは若い頃は苦手でしたが、今はスポーツとして見ることができます。

自分はもちろんできないので、なんだか見てるだけで血が沸き立つ感じがするんですよね。
そういう興奮、たまにはいいんじゃないか、と思うのですが、

たぶんスポーツの試合って長いので、TVなどを見だしたらキリがないので今はおあずけです。

異種格闘技はあまり好きじゃありません。
あくまで純粋なスポーツとして、パフォーマンスなしで見たいです。

遠く離れても

彼女の変わりように、少なからずショックを受けてしまいました。
そして、ご主人はとても若く、私たちと同じ年頃の人でした。
まだ、22、3才です。

あれだけ年上の人と付き合い続けて、こんな若い人と一緒になるなんてそれこそ驚きでありました。

家はとても貧しそうで、古い長屋のような公営住宅だったと思います。

何もかも今までの彼女のイメージと違っていたので、
何故、何故?が頭に渦巻いておりました。
結婚する前は、自分の体に磨きをかけて、夜のネオン街で働いていたのです。

いろいろと話を聞くうちに、
何故こんな貧しい生活をしているのかがわかりました。

ご主人は交通事故を起こし、相手を死亡させてしまったのです。

まだ若く、お金がなかったのでしょう。任意保険に入っていませんでした。
それで1千万単位の保障を、自分で払わなくてはいけなくなったのです。

それは新婚すぐの出来事だったか、婚約中かだったか忘れましたが、
そのご主人を支えようと彼女は決心したのです。

その勇気と、愛の深さに私は感動しました。
自分だったら・・・と考えると、その借金を背負う自信はありません。

彼女は18で就職してから、本当によく働く子でした。
昼も夜も一日中働いていました。
そして、また仕事ができて働くことを厭わない子でした。

けれど、私は、ほかの若い子と同じように、自分のぜいたくのためだけに働いているのだと思っていました。

しかしその日彼女は、家族ができたうれしさを満面にたたえ、輝く笑顔で私を迎えてくれて、
そして、深い感動を与えてくれました。


それから、しばらくして私は東京を出て田舎に帰り、その数年後彼女も田舎に帰ってしまいました。

それこそ一生会えないような遠くに離れてしまった私たち。

けれど18で出会ってから今まで、私は彼女の友達だということを、本当に誇りに思っています。
今も年賀状のやりとりは続いており、
いつか必ず会いに行こうと、力をもらいに行きたいと
夢見ているのです。

友情は続く

それからしばらくは疎遠になっていた二人ですが、
何故か、何事もなかったような付き合いが又始まりました。

私のほうも彼氏ができ、彼女の気持ちが少しわかるようになったのと、
彼女が又ちょっぴり大人になり、
包容力が増していたので、お互いに心地よかったのでしょう。

その時、彼女は随分年上の人と付き合ったり、若い男と浮気したり、いろいろ楽しんでいて、
相変わらずだなー、と思っていましたが、
実はとっても優しい子で、母性が強かったので弱い男をほっておけなかったらしいです。


それから数年、私も彼女もそれぞれ忙しく遠く離れたところに住んでいたので、(今のように携帯もありませんし^^固定電話を引くお金もなかったので)自然と連絡も途絶えていきました。

ある日、突然ハガキがきました。
「結婚しました」と。
もうびっくり仰天。

遊びに来てください、と書かれていたので、数年ぶりに会いたくてでかけていくことにしました。

家近くに行くと、彼女が子供を連れて迎えに出ていてくれました。

ここで@@)もう、めちゃくちゃびっくりしたことが・・。

彼女が見る影もなく太っていたのです。

あんなにナイスバディだったのに・・・。
あんなに色気たっぷりだったのに・・・。
どうしたの?今はもう「肝っ玉かあさん」・・・。
化粧っけもない顔で彼女は幸せそうに笑っています。



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