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桜色の日々

カコバナ
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バイトで得たもの

一番最初のバイトは高校3年生の冬休み。
高校生ではバイトは禁止されており、冬休みにやっと許可がおりるのだ。

友達と二人で行ったところは花屋。

小さな小さな花屋だったけれど、年末だったのでものすごく忙しかった。
店は露店で、戸なんてなくて、ふきっさらし。
小さなストーブはあったけれど、ないも同じ。

いい花屋さんのようにケースなんてないので、花のために熱は厳禁なのだ。
花は重い。
重い花束を山のように抱えて店まで運ぶ。
そしてやることは、バラのとげ取り。
痛い!冷たい!


数時間、そんな冷たい作業をし、やっと店番から開放されて帰途に着く、そんな日々が5日間。
たった5日間です。

それなのにとてつもなくたくさん働いたような気がしたなあ。
そしてもらった金額が5000円。
二人して愕然としました。

一日1000円。
1時間200円×5時間。1000円。;。;)

昔だから、と言うなかれ、
あんなに重労働してこのくらいの金額なのか、と
社会の厳しさを教えてもらった。
生まれて初めての労働。

だから、18歳から働き始めたときも、
ほんと少ない給料も、なんとも思わなかったし、
日本一物価の高い東京で節約生活を続けることができ、
そうだ、
あれが良かったんだ、と今更思える5日間のバイトだった。

それからバイトなんてすることはないだろうと思っていたのに、
何故か、数年後には又バイト生活が待っていたのだ。

つづく。


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恋のひとつの話

もういくつめの恋の話になるのか。
けれど、この恋はいつもの恋と少し違います。

それは何故か。
唯一、自分から好きになったのではないからです。
言い寄られて、押しにおされて付き合うようになりました。
それは始めての出来事だったのです。

私はもう30を超えていました。
若くないけれど、異様になんだかモテた時期だったのです。
ですから、まるで女王様のような気分にさせてくれる
その男性に対して傍若無人に振舞っていたかもしれません。

5つくらい年上だったと思います。
はっきりは覚えていませんが、なにせ、自分から好きになってする恋とほんとに勝手が違ったのです。
私は彼の誕生日を覚えなくてもよかったし、
自分からデートの誘いをしなくてよかったし、
お金も払わなくてよかったし、
どこに行くにもいい車でお迎えでした。

けれどよく飲む人で、いつもデートはスナックなどの飲み屋さん。
夜のデートは私のカラオケの稽古のようなものでした。
歌うと彼はご機嫌だったので、
いつもふたりで歌ってました。
ものすごく歌がうまい人でした。

彼は、地元では有名人で、イベントの司会など頼まれてよくやっていました。明るくて、楽しくて面白くて素敵な人でした。

自分で商売をしていました、
中古車販売です。ふたつお店を持っていて、いつも行き来していて大変そうでしたが、
忙しい毎日の合間を縫って私たちはデートを重ねました。

彼はとてもいい人でした。
気の小さな優しい人でした。
私との結婚を望んでいたようでした。

けれど・・、彼は妻帯者だったのです。
もう家にはほとんど帰らず、実家に寝泊りしている状態でしたが、
かわいい6歳になる子供もいたのです。

そして更に、彼は再婚でした。

一番最初の結婚は19歳のとき。
そこで娘が生まれましたが、すぐに離婚。
娘のことが気になりながらも、彼はその後勤めていた会社をやめ
実家に帰って、商売を始めました。

それから商売が軌道に乗り、2店舗を構えるまでになりました。
けれど、
何がいけなかったのか、
彼の性格か、
おぼっちゃん育ちの甘えか、
再婚して息子ができてもすぐにうまくいかなくなったのです。

そこで私と出会ったのです。

けれど、私は他にも付き合っている人がいました。
浮気?
違う?
情にほだされて?

あまり自分の感情がわかっていなかったような気もします。
けれど、押されて付き合ってる、という意識のためか、
彼にのめりこむことなんて到底できませんでした。
まして妻帯者、遊びと言われればそれまでで、
恋とは呼べないものだったかもしれません。

彼は年下の私にいろいろな相談をしてきました。
最初の妻の娘が、会いたいと言ってきてるが、
今の妻が許してくれない、会うべきか、否か、なんて。

そんなこと私に相談されても、と思いましたが、
こう答えました。
「会いたいなら会えば。」

気持ち次第ですよね。
誰に許されなくても、親子なんですから会いたければ会うといいと思います。
彼は奥さんを怖がっていました。
けれど、子供はとてもかわいかったようです。

付き合うにつれ、彼は離婚をしたがっていて、
それは私と結婚するという約束の下に実行したいと思ってるようでした。

それはご勘弁を・・と心で思っていましたが、
ずるずると押しに負けて付き合っていました。

私が原因で離婚をする?
冗談ではありません。
そんな役回りはごめんです。
第一息子がかわいそう。
なんとか離婚を思いとどまらせようと思いました。

それには、別れるしかない、と思ったので、
彼を呼び出し、手を握りこう言いました。
「ねえ、もう友達にならない?」

彼はすごくすごく驚いて、
今にも泣き出しそうな勢いで「いやだ」と言いました。
けれど、いろいろと話をして私の決心が変わらないことを知ると
「友達にはなれないから」と言って去っていきました。

とてもかわいそうに思いましたが、仕方ありません。

それからの彼の消息がとても気になりました。

けれど、彼はすぐに再婚したのです。
私と別れてから2年もたたないころです。
自分の店を移転してそこに住まいを作っていましたが、
そこに子供を抱いた女性がいたのです。
まだ1歳未満の子供でした。

よくよく計算してみれば、私と別れてすぐに付き合い始め、結婚し、子供を作ったとしか思えません。
愕然としました。
離婚してしまったのか。
どっちにしろ離婚して、自分の寂しさを埋めるために結婚し、又子供をつくったのか・・・・。

寂しい人だったのです。
孤独が嫌いな人だったのです。
わかってはいたけれど、弱すぎる・・。

それから何年たったでしょうか。
たぶん2年くらいだったでしょうか。
いきなり彼は失踪したのです。

商売をだめにしたのです。
狭い田舎ですから、すぐに噂は広まります。
実は私の会社とも少し取引があり、売掛金が残されていました。

私は実家に電話してみました。
お母さんが出られて、
「知りません!」の一点張り。
「そんな人はいません、私は知りません!」と言い張られました。
まだ幼子を連れた奥さんはどうしていたのでしょう。
本当にかわいそうなことでした。

それから以後、彼の消息は知れません。
いったい、今どこで何をしているのでしょうか。
残された3人の子供たちはお父さんをどう思っているのでしょう。

弱くて情けない男、
そう思えばそれまでですが、
一時でも彼の人生に関わった私は、
いまだに彼のことが気になり、又、いつも思い出しています。

 

私の後輩

私の職場にいる後輩女子のことだ。

彼女は言葉の使い方がよくわからない。
特に13歳くらい年上の私に向かって、どうしゃべっていいかわからないようだ。

けれど、よく考えると彼女ももうおばさんの部類だ。
言葉遣いが云々という歳ではない。

たとえば、
「(りん)さんは(外出先から)今日は何時に帰ってこられますか?」と聞く。
「何故?」と聞き返す。(当然そのときにならないと時間がわからないから答えようがない)

「私、免許更新に行きたいんです。だから何時に帰ってこられるかなと思って。」
「それって何時でもいいんでしょ?」
「はい。」
「・・・・・・・・」

じゃー、何故私の帰ってくる時間を聞きたいのだろうか・・。
私の頭の中にはそういう疑問が沸き起こっているのだが、
彼女には、何故私が「・・・・」となっているのか皆目見当がつかないようだった。

では、その件を人に伝えるためにはどう言ったらいいか?

「すみません、私、今日免許更新のために外出したいのですが、(りん)さんが帰ってこられたらでかけたいと思います。」

と、こう言えば済む。


朝礼のときに社長が「私は明日、○○のために現場に入っているので一日外出になります。」と伝えられた。
そして次の日、夕方ごろ、とうとう彼女が言った。

「あの、社長は今日はどこかに行かれてるんですか?」
「?!」
「昨日、朝礼で言われたよね、聞いてなかったの?」
「・・・・・」

まったく聞こえていなかったか、聞いていたけれど忘れたか、
どっちかわからないけれど、
彼女の頭の中からその記憶が消去されていたことは確かだ。
それも夕方になって初めて所在を聞くというのは
とりもなおさず、私が怖いから^^;

いつもびくびく怯えている。
私は怖い?^^;

優しい先輩になるのはとうにあきらめている。
かといって、厳しい忠告も必要ないと思っている。
なぜならもう40だから。

・・・・・・・・・・・・・・☆☆

後輩女子へ

自分で考えて自分で判断してください。
すがるような目で私を見てもだめです。

パソコンでエラーが出たからと言って、いちいち私に聞くのはやめてください。無視します。

私はあなたの教育係はとっくの昔に降板しています。
もう入社してから何年たつでしょう。
小学生の息子の話をするのはいいけれど、
自分は友達がいない、友達をどうやって作ったらいいのか?と私に聞くのはやめてください。
子供だけに頼りきって生活していて、この子は家から出したくない、と言うのはいいけれど、
周りがあきらかに引いているのを察してください。

そういう相談には乗れませんから~~!

相談員

総務という仕事をしている関係上、
職安にはよく足を運ぶ。

そこで、いつもいつも思うのが、人の多さだ。
それだけ失業者が多く、たくさんの人が失業保険をもらっている。
財源はたまったものではない。
私たちの支払う雇用保険ではきっと足りていないだろう。

全国的な不景気でますます失業者は増えるばかり。

けれど、人手は足りてないのだ、どこも。
ただお金がないので雇えない。
機械化したから人員が減らせて、儲かった~という企業がいたら紹介してほしい。
ものすごく縮小しないとやっていけなくて、いずれつぶれていく、そういったところが多いのではなかろうか。

企業は人なり、とよく言うが、
機械では企業自体はよくならない。
経費が助かる、というのは気のせいだ。

社会保険を払わずに(払えずに)失業保険をもらっている大勢の人々。
その人々の就職相談に乗っている相談員の話である。

たぶん想像だが、彼らの多くは、お役所からの天下り。
とても偉そうだ。
えらいか?といつも心で思ってその態度を観察している私である。

庶民のそれも生活苦にあえいでる人たちの話を親身に聞けるのは
天下りのおっちゃん、おばちゃんではだめだ。
相談員こそ、リストラするべきである。

誰だって環境の整った、快適な職場で働きたい。
けれど、少し身体の弱い人、見た目にはわからない心身症の人、
身障者ではないけれど、極端に目が悪かったり、
いろいろな身体のことで、思うような職につけない人々。

健康ですか?と面接で聞かれる。
いいえ、不健康です、と言える人はいない。
働き出して不都合が出てじきにやめざるをえなくなる。

相談員に必死にくいさがってる一人の女性をみた。
「私は目が悪いんです。細かな手作業ができない、それでも、身障者手帳を持っているほどではないので、認めてもらえないんです。どうしたらいいんですか? 
みんな陰で作業の遅い私の悪口を言うんです。
たまらないからやめました。
どこか私を雇ってくれるところはありますか?」

相談員は何もいう事ができず、固まっている。
「あーそうですかー。あー・・・」と言ってるだけである。
おなかの中では「そりゃむつかしいわ。」と思ってるはずである。

もっと中小企業を渡り歩いた、経験豊かな中堅幹部あたりの人を相談員にするべきだ。
きっといろんなアドバイスができることだろう。

企業側が求人を出したい、と思うような方向に話をもっていくこともできるだろう。
それこそ営業手腕がものを言う。

高いお金を払って、公務員の天下りの相談員を職安においておかないで欲しい。
変わらずにボーナスや給料をもらっていた人にはわからない。
失業保険をもらいに職安に来たことがない人には、
そのつらさはわからないのだ。

今の日本の問題点のひとつは、失業者が多いということである。
社会保険税、所得税、地方税と払わなければいけない税金を払ってない人があまりに多いからである。

面接のためにスーツを万引きした男がつかまったが、
そういう貧しい国なのに、
面接にスーツを着なきゃだめだ、という企業や、相談員がいるのだ。

私は女性だし、守る家族もいないので、のほほんとしているが、
大黒柱である男性が、失職したらどうなるか、
考えただけでもそら恐ろしい。

私の意見は的を得てないかもしれないが、
まあカンベンして欲しい。
自分が職を失った時のことを想像すると恐ろしいのだ。

大地震

今、ハイチ共和国は大変なときを迎えている。

国として今から復興を期待されていただけに打撃は大きい。

地震は天災である。
これはいかんともしがたい。

日本だって同じだ。阪神淡路大震災は記憶に新しい。

何故、ハイチが人事に思えるだろうか。

何故、日本政府の対応が遅いのか。

お金さえ出せばあとはもう、アメリカに任せましょう。
ってことなのか?

私はかつて東京に住んでいたときに、たくさんの小さな地震を経験した。
今住んでいる地域は極端に地震が少ないところだ。
だから、東京にいるときの地震は頻繁で、
「死ぬときは地震で死ぬのでは?」という予感めいたものがあった。

今考えれば、地震で死ぬなんてことはめったに起こらないことだけれど、
それでも可能性はむしろ昔よりも現在のほうが高い。

一回経験した大きな地震は、昼間で震度5くらいだったと思う。
7階建てくらいのビルの4階に会社があり、
しかも、坂の上に建っていたので、片方は鉄筋の支柱がありビル全体が支えられていた。

すごく揺れて、ビル全体が大きく揺れて、ゆさっゆさっという感じだ。
しばらく揺れが続いた後、止み、又何回か揺り戻しがきた。

みんな、きゃーきゃー言いながら、机の下などに隠れたが、幸いけが人なども出なかった。

ただ、部屋の奥にあった、伝票などの消耗品を入れてある棚が倒れ、側に人がいたら危ないところだった。

アパートで寝ていると明け方によく地震が起きた。
一番熟睡しているころである。
「あ!地震だ!」とすぐにわかるのだが、身体が起きない。
なので、
「箪笥の上においた、何かが落ちたら起きよう。」
「あの上に確か飾り物があったからあれが落ちたら音がするだろう。」
と思いながら寝たままの状態だ。
だいたい家具がないので、基本的には危なくない。

しかし、頻繁にあるので、
「私はこのまま東京にいたら地震で死ぬだろう。」と思っていたのは
仕方ないだろう。

けれど、今住んでいるところは反対に地震慣れしてない人ばかりなのでパニックを起こしやすい。
地震が起きたとき、冷静になれて、
最初に何をするべきか、とっさに判断できるかどうかが生死の分かれ道なのだ。

怒れる地球がいったいどれくらい、人間を許して住まわせてくれるのだろうか。

20歳の誕生日

そんなこんなで、苦しい恋の日々を送っていた私。

このままでは自分の気持ちに区切りがつかないと思って、
思い切って告白することにしました。

おりしも自分の20歳の誕生日が近づいていたので
この機会にと思い、
ねだって、家まで送ってくれと彼に頼みました。

家までの10分くらいの道のりを歩きながら、
彼にこう言いました。

「恋人がいることはわかっているけれど、やっぱり言わなくちゃと思って・・、ずっと好きです。」

と。

そうすると彼はこう答えました。

「ごめんね、妹みたいに思ってるよ、何でも相談してね。」
と。

心の中では「けーっ!妹かよっ!」って悪態ついてたような気がしますが、
気持ちは伝えたのですっきりしました。
これで前へ進めると思ったのです。

残念ながら、それから本当に疎遠になっていきました。
彼らが学校を卒業したこともあり、
一緒に遊ぶこともなくなってきたからです。

それより以前に、一回、彼の恋人に田舎の甘夏を送ったことがあります。
何故かはわからないけど頼まれたからです。
食べてみたいと。

それで送ったら丁寧な手紙が彼女から届きました。
彼女なりの、牽制だったと思います。

とても丁寧な字で、大人の賢い女らしく、
お礼が綿々と綴られており、Kをよろしく、と書いてありました。

一回もお会いしたことのない彼女でしたが、写真は見ました。
とてもキュートでほんとうに「負けた!」と思う女性でした。

未練はありませんでしたが、後遺症は長く続きました。
誰にも愛されずにこのまま歳をとるんだろうか?という不安。

誕生日にふられた私は、何ヶ月も暗い20歳を過ごさなければなりませんでした。

楽しくも苦しい日々

なんといいますか、
恋は苦しいものですね。

想いがつのってどうしようもないけれど、それを表に出すことは許されませんでした。

この5人に加えて、時々参加する2人がいて、夏休みには一泊で旅行することになりました。

初めて好きな人と長い時間一緒にいられる、
最初はその想いで嬉しくて嬉しくてだったのですが、

そこにKさん(仮名)の彼女の妹が参加することになりました。
これにはびっくり。
まだ17歳です。

いまどきの高校生、髪を金髪に染めて、
ただただ、お兄ちゃんお兄ちゃんと、Kさんにべったりなのです。

特に私に対して敵対心を燃やしていたのか、
私の様子を窺いながら、彼にまとわりつくのでした。

「私のお姉ちゃんの彼氏なんだからね、取らないでよね。」
そう言っているようです。

けれど、私の目には、お姉ちゃんの彼氏というより、彼を想ってる女性にみえました。
私に対して激しい嫉妬心をあらわにしていました。

Kさんの恋人の妹、という立場で甘えまくる彼女を見て、
どうしようもない思いで憎しみさえ湧いてきたほどです。

そんな複雑な思いで、過ごした2日間。
それでも忘れらないものとなりました。

山の上で見た、降る様な星空。
天の川がこんなにはっきり見えたのは初めてでした。

いろんな風景がフラッシュバックし、いろんなことが思い出されますが、
この日を境に、
それまでのようにフランクに、仲間とふざけながら過ごすことができなくなってしまいました。

ファーストキス

18で上京するまで、男性と手をつないだこともなかった私。

けれど、上京してからは、箍がはずれ、
性格が180度変わりました。
上司からは大切にされたし、思う存分仕事もできたし、
自分も社会に必要とされてるんだ、という意識が私を変えたと言っていいでしょう。

男性にも積極的になりました。

飲み仲間とその時は4人だったと思います。
飲みすぎて、雑魚寝をしていました。
みんな気持ちよさそうに寝ています。

私はといえば、彼の隣に寝ていました。

少しづつ、わからないようににじり寄っていったかもしれません。
よく覚えておりません。

すぐ近くまでいき、どちらともなく寄り添って寝ていました。
若い男女がそんなことしたらどうなるか、なんてもちろんわかっていましたが、
彼の方からキスをしかけてきました。

もちろん、ファーストキスです。
夢見心地でした。いまさらこんなことを言うのもなんですが、
書いていてとても恥ずかしいです。
あの時の喜びがよみがえってくるからです。

どのくらいの間だったか、相当長かったように思います。
仲間はとうに気づいていました。
寝てなかったのか~・・。

「いいかげんにしろよ、おまえら」という声が聞こえました。

そこで離れてしまいましたが、
私はもうふらふらでした。

けれど、その日から本格的な地獄の日々が始まるのです。

横恋慕という言葉がずっと頭の中にあり、
けれど、初めての恋をあきらめられるはずもなく、

彼は、恋人がいながらもちろん、私にも好意を持っていてくれているのはわかっていました。
けれどそれが苦しいのです。

突き放してくれたら、そこで終わっていたものを。

その頃は、男性のずるさ、など微塵も思っていませんでした。
ただただ、横恋慕した私が悪いのだ、と
苦しく、寝てもさめても苦しい日々が続いたのです。

初恋

初恋はいつ?
などと聞かれても、はて、いつだったっけ?
と思うものですよね。

はっきり憧れと恋との区別がつかないんですもの。
片思いは初恋ですか?^^

とすれば19歳のとき。

社会人になって、ようやく男性とも違和感なくしゃべれるようになってきたころ。
同級生が近くに住んでいて、いつもそこをたまり場にしていた男子3人。
そこに私と彼女が2人加わって、ほぼ毎日飲んでだべってました。

彼らは専門大学の夜間に通っている学生で、学校が終わってから金がないので家飲みです。
飲むものはたいてい、ウイスキー。安いウイスキーを買ってきて水割りにして飲むのがほとんど。

私はそこでウイスキーの味を知り、タバコの味も知りました。
まー酒乱もひとりいて、お酒ってこんなに人を変えるんだ、ということも学びました。

楽しかったですね。
TVもないし、今のようにビデオもないし、ただ、しゃべって飲むだけなのに、なんでこんなに楽しいんだろ、って思いました。
愉快な仲間って感じで、いつも笑いころげてました。

その中の一人の男性。すでに23歳という年齢だったのですが、笑うと前歯が出てねずみのようで、ものすごくかわいかったのです。
よく笑う人でした。
そして包容力があってあったかい人でした。

だけど、そんな彼に恋人がいると知ったのはショックでした。
いるだろうなあ、そりゃ、いるだろうなあ、とは思いましたが、
恋しい気持ちは止められません。

仲間としゃべって飲んでそんな関係に満足はしていましたが、
私の恋心は隠せないまでになっていて、
仲間が警戒し始めました。

まずいぞ、まずいぞ、早くあきらめさせにゃ、
そういう感じでした。

名物上司

最初に入社した会社で、直接の上司だった部長がいました。

あとは、男性が5人、女性は私ひとり。

いろいろとみんなにかわいがってもらったりしましたが、
特に部長にはお世話になりました。

その頃はまだ40代だったのに、すでに会社のNO,3でした。
切れ者だし、面倒見はいいし、
酒に呑まれてぐだぐだになるし、
わけのわからない事を言い出して怒鳴るし(笑)

でも、最後にはにこっとわらって「なっ?^^」って言うのです。
愛らしいブルドッグのような顔で。

ちゃきちゃきの江戸っ子で、べらんめえ口調でいつも大声出してました。
元気よすぎるー部長!

そんな部長はいつも大きな人で、
会社のことを一番に考えていました。
私が所属する部が、売上が伸びず、企画も行き詰っていました。

全体や将来を見据えて、今から何をするべきか!を考えていかなければならない時期だったのです。

それが今いる5人では、切れ者の部長の影に隠れ、どうしてもジリ貧状態から抜け出せないでいたのです。

そうこうするうちに、部が解散されることに決まりました。
それぞれみんな、商品課や、店舗に移動になり、
私も本社内での営業部に所属することになったのです。

私は部のみんなを愛していました。
全員大好きな人たちでした。

離れて仕事するなんて・・・、という思いで
勢いで会社をやめることになってしまったのです。

部長からは思いとどまるように言われました。
「これからお前を使おうと思っていたのに」
というありがたい言葉もいただきました。

その言葉があったから、職場を移っても自信をなくすことなく仕事が楽しくできたのではないかな、と思っています。

そのあと勤めた会社を退職した後、田舎に帰ったのですが、
その会社も随分たってから、大阪に支店を出したので勤める気はないか、と話しがきました。

何年もたって、思い出してもらえて、又使おうと思ってもらえるなんて、
ほんとにありがたいことだと思いました。


名物部長はその後、どうされたかというと、
なんと代表取締役に出世しました。
まだ50をちょっとすぎたころです。
社長を数年やり、突然退職しました。
55歳くらいだったと思います。

私はもうびっくり。
退職して何をするのかと思っていたら、
なんと悠々自適に遊んでいました。
たぶん、事務所を作っていたのでコンサルティングのような仕事をされているんではないかなと思いながら、
話しをきけば、蕎麦を打ってるとか、
そいうことしか言いません。

ユニークで、洒脱で、粋な部長は、
今もぐでんぐでんに酔っ払っては、まわりの人を困らせて、
愛らしい笑顔を振りまいていることだと思います。^^





何故格闘技が好きなのか

これはあんまり真剣に考えたことがありませんが、

男性が格闘技に燃えてる姿がとても好きなのです。

最初に好きになったスポーツは「ラグビー」

これはどう見ても格闘技ですよね。アメリカンフットボールのようにプロテクターをつけてないし、
肉弾戦です。
生身で身体をぶつけ合う姿に興奮してました。

それから好きになったのは「空手」です。

これは好きな先輩が空手部のキャプテンだったので^^。

それから「プロレス」。父が大ファンで小さい頃から否応なしにプロレスは見ていました。
(すもうはちょっと・・。お尻があまり好きではなくて・・)

映画俳優で言えば「ブルース・リー」に「ジャッキー・チェン」をお決まりのように経て、
今は「ジェット・リー」

最近まで付き合っていた人は、少林寺憲法6段でした。
おじさまが道場をやっていて、後継にならないか、といわれたのですが断ったそうです。

本人はキックボクサーになりたかったようです。

そうです、「キックボクシング」も好きでしたね、今は普通の「ボクシング」が好きです。
ボクシングの殴り合いを見るのは若い頃は苦手でしたが、今はスポーツとして見ることができます。

自分はもちろんできないので、なんだか見てるだけで血が沸き立つ感じがするんですよね。
そういう興奮、たまにはいいんじゃないか、と思うのですが、

たぶんスポーツの試合って長いので、TVなどを見だしたらキリがないので今はおあずけです。

異種格闘技はあまり好きじゃありません。
あくまで純粋なスポーツとして、パフォーマンスなしで見たいです。

遠く離れても

彼女の変わりように、少なからずショックを受けてしまいました。
そして、ご主人はとても若く、私たちと同じ年頃の人でした。
まだ、22、3才です。

あれだけ年上の人と付き合い続けて、こんな若い人と一緒になるなんてそれこそ驚きでありました。

家はとても貧しそうで、古い長屋のような公営住宅だったと思います。

何もかも今までの彼女のイメージと違っていたので、
何故、何故?が頭に渦巻いておりました。
結婚する前は、自分の体に磨きをかけて、夜のネオン街で働いていたのです。

いろいろと話を聞くうちに、
何故こんな貧しい生活をしているのかがわかりました。

ご主人は交通事故を起こし、相手を死亡させてしまったのです。

まだ若く、お金がなかったのでしょう。任意保険に入っていませんでした。
それで1千万単位の保障を、自分で払わなくてはいけなくなったのです。

それは新婚すぐの出来事だったか、婚約中かだったか忘れましたが、
そのご主人を支えようと彼女は決心したのです。

その勇気と、愛の深さに私は感動しました。
自分だったら・・・と考えると、その借金を背負う自信はありません。

彼女は18で就職してから、本当によく働く子でした。
昼も夜も一日中働いていました。
そして、また仕事ができて働くことを厭わない子でした。

けれど、私は、ほかの若い子と同じように、自分のぜいたくのためだけに働いているのだと思っていました。

しかしその日彼女は、家族ができたうれしさを満面にたたえ、輝く笑顔で私を迎えてくれて、
そして、深い感動を与えてくれました。


それから、しばらくして私は東京を出て田舎に帰り、その数年後彼女も田舎に帰ってしまいました。

それこそ一生会えないような遠くに離れてしまった私たち。

けれど18で出会ってから今まで、私は彼女の友達だということを、本当に誇りに思っています。
今も年賀状のやりとりは続いており、
いつか必ず会いに行こうと、力をもらいに行きたいと
夢見ているのです。

友情は続く

それからしばらくは疎遠になっていた二人ですが、
何故か、何事もなかったような付き合いが又始まりました。

私のほうも彼氏ができ、彼女の気持ちが少しわかるようになったのと、
彼女が又ちょっぴり大人になり、
包容力が増していたので、お互いに心地よかったのでしょう。

その時、彼女は随分年上の人と付き合ったり、若い男と浮気したり、いろいろ楽しんでいて、
相変わらずだなー、と思っていましたが、
実はとっても優しい子で、母性が強かったので弱い男をほっておけなかったらしいです。


それから数年、私も彼女もそれぞれ忙しく遠く離れたところに住んでいたので、(今のように携帯もありませんし^^固定電話を引くお金もなかったので)自然と連絡も途絶えていきました。

ある日、突然ハガキがきました。
「結婚しました」と。
もうびっくり仰天。

遊びに来てください、と書かれていたので、数年ぶりに会いたくてでかけていくことにしました。

家近くに行くと、彼女が子供を連れて迎えに出ていてくれました。

ここで@@)もう、めちゃくちゃびっくりしたことが・・。

彼女が見る影もなく太っていたのです。

あんなにナイスバディだったのに・・・。
あんなに色気たっぷりだったのに・・・。
どうしたの?今はもう「肝っ玉かあさん」・・・。
化粧っけもない顔で彼女は幸せそうに笑っています。

仲良くなって

それからしばらくして、寮を出て行くことにしました。

「こんなとこ、もういられるか。」みたいな事があって、彼女が出て行くというので、じゃ、私も、となんと一緒に住むことになったのです。

一年前の事を思うと、運命って不思議だなあって思いました。

毛嫌いしてた彼女が誰よりも好きになっていたのですから。

けれど、彼女には唯一欠点がありました。
これは欠点と言っていいのかいまだにわかりませんが、
男性との関係がルーズだったという点です。

何人か、付き合ってる男性を知っていますが、全員妻帯者でした。
もちろん、年上とじゃなきゃ、というのもあったでしょうが、
男性をメロメロにする色気と魅力があったのですから仕方ありません。

寮にいた当時はそう簡単に考えていました。
けれど、これが一緒に住むとなるとそうはいかなくなってくるのです。

当時、彼女は店舗づとめで、帰ってから更に夜、小料理屋でバイトをしていました。
料理も抜群に上手だったですね、女性としてのたしなみは全部心得ていました。

そんな女性がもてないわけがない・・。
当然、帰ってこない日も多い。

最初のうちは心配もしていましたが、彼女は彼女、私は私と割り切って、フェアな気持ちで同居生活をしていました。

しかし半年も一緒に暮らしたでしょうか。
別れは突然やってきました。

ある日、部屋に帰ってくると、ふとんが敷いてあって、
彼女と誰かが寝ていました。

「!」

と思って男性の顔を見ると、私もよく知ってる顔。
お店の店長で、奥さんもおり、その奥さんは私と彼女の同期、しかも友達です。

「あ~あ・・・・・・。」
「出て行ってくれない?」
「こんなんじゃ私一緒に暮らせないわ。」

それから、彼女は私の留守にドロンと消えてしまったのです。

情けないったら・・・。

寮で・・。

偶然にも、その女番長と私は同じ寮にはいることになりました。

牢名主がいるその寮で、馴染めず浮いているのはその子と私だけ。

まったく正反対のタイプなのに、うわーやなかんじーとか思ってるにもかかわらず、
その子の吐く正論に、内心舌を巻いていました。

彼女は本当に番長だったんです。
高校の頃は学校を仕切ってました。

私よりずっと大人で、社会を知り、いろんな事を知っていました。
同い年の女の子なんて子供に見えて仕方なかったのです。

見るからに堅物で、めがねをかけてスーツを着てる私のことは、ハナからばかにしていたようです。

要するにふたりとも、同じように思ってお互いを見ていたわけです。

けれど、お互いにないものを持っていると気付いた私たちは急速に接近していきました。

ひとたびしゃべり始めると、本当に魅力的な子で、
ほっておけないかわいさも持ち合わせていました。

もう、モテモテです。
身体がまた色っぽかった。90もあろうバストと、くびれたウエストで自分の体の魅力を知り尽くしており、武器にしていました。

私の親友

18歳で社会人になり、会社の新人研修を受けるために、
東京の研修施設に一週間缶詰になることになりました。

それは田舎ものの私にとって、すべてがカルチャーショックでありました。

いろんな地方から来てる少年少女たち。
中には不良と呼ばれるタイプの子もたくさんいました。

まだまだ高校生気分の私は、まず女の子が化粧しているというのが驚きでした。
もちろんしてない子もいますが、
まるでお水やないか、と思うほど厚化粧の子もいます。

真面目一途な私だったのでしょうね、
そいういう子たちを軽蔑の目でしか見られなかったのです。

敬遠してました。遠くから眺めるだけ。
別に怖くはありませんでしたが、ただ軽蔑しておりました。

その中で特に目立つ子がいました。
その頃流行の深いスリットのはいったロンタイをはき、
目をクレオパトラのように塗って、真っ黒なボブヘア、
そして分厚く真っ赤な色っぽい唇。
ポーチを小脇にかかえ、すたすたと歩く姿は
どこからどうみても、女番長の風格でした。

同じ歳なんだろうか・・・・。

あんな子とだけは友達になりたくないな・・・。

そう思いながら、何かと彼女が気になる一週間でした。

Xからの手紙

私と同世代の方なら、

一回は経験をしたことがあるのではないでしょうか。この「Xからの手紙」それなあに?と言われる人はある意味幸せです。

これはとてつもなく、子供の心を傷つけるものでした。

小学校でも中学校でもあったように記憶していますが、
はては、高校1年生!

高校生になってまでこんなことをさせる先生って・・。

まず、先生に「怒!」ですが、

生徒は口に出していいませんが、「こんなばかなこと誰がするか」と思ってた人は大勢いたでしょう。

まず、おおまかに3種類の人たちに分けられると思います。

1、ばかばかしい!白紙で出すよ。

2、この際だから悪口いっぱい書いちゃえ、あいつ気に入らないし。

3、何かいい事書いて喜んでもらおう。


私は劣等感いっぱいの子供でした。
だから人と交わらなかった。

遠くから仲良しグループを見てとてもうらやましく
自分はあんなに仲良くしてくれる人はいない、
嫌われてるからだ、
かわいくないからだ、
愛想がないからだ、
身体が貧弱だから、
体操もできないし
頭もよくないし、
こんな子はどこにもいない、
最低、

そう思い込んで育ったのです。

だからあまり親しくなっていない教室の誰かへ向けて手紙を書くなんてできない芸当でした。

先生って人種はどうしてこう「人の心がわからない」のが揃ってるんだろう・・・って実は今でも思ってるんですけどね。

話しは飛びますが、実際、自分が何を書かれるのか、怖くて怖くてたまらなかった。
「お前なんて死ね」なんて書かれてた日には、ほんとに死にかねない感じでした。

何故そんなに怯えていたのか。

劣等感はあっても、自分を嫌いでも、人に愛されたいという願望は人一倍強かったからです。

嫌われている現実を目の前につきつけられたとき、死にたくなるのは誰でも同じ。

結局、その時覚えているのは、誰かわからない男の子であったと思いますが、私宛の手紙は「白紙」でありました。

当たり前だと思いました。知るわけないです、話したこともないし、きっと顔もろくに思い出せない。
いいところをあげようにも、まるで見知らぬ人ですから。
無個性な人間なんだ、とそれでも落ち込みましたが、
悪口をかかれるよりマシだと思いました。

今でもこの「Xからの手紙」は道徳の時間に存在するのでしょうか。

私の通った高校には、ものすごくかわいい女の子がいました。
ミス○高と呼ばれ、Tvに出ているアイドルよりかわいい、と私は思っていました。
もちもちした白い透き通るような肌、ピンク色の唇。真っ黒な大きい瞳。柔らかな声、豊満な胸、私が女として憧れる部分を全部もった人でした。

当然、私はその人のファン、偶然3年のとき同じクラスになり、仲良く話せるまでになったのでとても嬉しかったことを覚えています。

その彼女には唯一であったかどうかはわかりませんが、劣等感がありました。それは手の指です。
親指が男性のもののように太かったのです。
そして彼女は「Xからの手紙」のとき、その指のことを「気持ち悪い」とかかれたのでありました。

彼女のショックはどれくらいのものであったか・・。
元々、指に強いコンプレックスがあったわけですから、それを直接投げつけられたのではひとたまりもありませんでした。

彼女はとても気持ちの優しい子で、かわいいことを鼻にかけるタイプではありませんでした。
ただ、とても芯が強く、みせかけだけのかわいさではない、真の美しさを持った女性でした。

たまたまの美貌に嫉妬され、ひどい仕打ちを受けることになった「Xからの手紙」
彼女もまた、一生この事を忘れないでいるのではないでしょうか。

偶然にも彼女とは近所に住んでいます。
忙しい商売をされてるので、会うこともありませんが、時々姿をみかけて、なりふりかまわず仕事しているのに、なんでこんなに美しいんだろう・・・と思うことがあります。

今の歳になればわかる、真の美しさ。心の状態は表に出て、
そして年を重ねるごとにその輝きを増すのです。

そんな事がわかる年代になって、私もようやく子供の頃のコンプレックスが消えていったのかもしれません。






人生は一度きり

若い頃、ずっと年上の上司と付き合っていました。

彼は子連れのやもめ。
20歳のときに結婚し、21歳で離婚しています。

結婚してすぐに男の子が産まれ、
これから幸せな結婚生活!と思いきや、
奥さんが、未満児の子供を残し家を出てしまったのです。

彼の心には大きな傷が残りました。
そしてその傷は、奥さんを含め女性を憎む心に変わっていったのです。

彼の子供にかける愛情は相当なものでした。
小さい頃はほとんど妹さんが面倒を見ていたのですが、実家を出てからは、彼がご飯の用意からすべてやっていました。

私と付き合い始めたのは子供が12歳になったころでした。

付き合っていくうちに、彼の口からは、
「一生結婚しない」という言葉が何度となく吐かれるのです。
元奥さんへの憎しみは、自分の幸福などどうでもいいと思うほど
深かったようです。

けれど本当はとても心優しい人でした。
結婚不可能だと思った私は、早々に別れてしまいましたが
彼の愛情はずっと感じていました。

彼が40歳を過ぎた頃、病気にかかりました。
胃がんでした。

子供は愛知へ就職しており、彼は一人暮らしをしていました。
当然、恋人はいるだろうと思い、私は彼の暮らしを思ってみることもなくなっていました。
お酒が好きで、釣りが趣味だった彼。飲みに行った先で親しくしている人がいると聞いたこともありました。

けれど、彼には誰も付き合っている人はいなかったのです。
毎晩、ひとりで痛みに耐えていました。

それを知ったときの哀しみ。

最初はみんなに胃潰瘍だと言っていました。
彼も正式な病名は知りませんでした。
何故なら、病院に行ったときは手の施しようがなく、
手遅れだったからです。
妹さんには余命3ヶ月と告げられていたようです。

最初の入院のとき、私たちも胃潰瘍だと信じてお見舞いに行きました。
けれど違う、
待合でたばこをぷかぷかふかしてた彼は
「薬もない、たばこも吸っていいと医者が言う。」と言っていました。

私たちはびっくり。
そんな胃潰瘍はありません。
ものすごく不安になりました。

病院からもらった診断書には「リンパ腫」と書かれていました。
胃潰瘍ではないことだけは確かだけど
何がなんだかわかりません。

もし命にかかわる病気だったらどうしよう・・・と悩みました。

しかしそれから彼は復活したのです。

仕事に帰り、それから約2年の歳月が流れました。
すっかり安心しきった私たちに、突然彼が言ったのです。

「腹に水がたまるんだ・・。」

腹水がたまる・・・死が近い・・。
そういう考えが頭をかけめぐりました。

そしてそれから入院、1ヵ月後、42歳の誕生日直前に亡くなりました。

すべて彼が死んでから聞かされました。
彼が胃がんだったこと、すでに手遅れだったこと、
本人は知らずに死んだこと。

妹さんはとてもしっかりした人で、すべてを背負い、お兄さんの看病を続けていました。

私はお葬式で号泣を止めることができませんでした。
彼の人生はなんだったんだろう・・。
別れた奥さんを死ぬまで許さなかったその憎しみで生きてきた彼。

子供は立派に成人し、結婚をし、子供をもうけています。
とても素敵な男性に育ちました。
すべて彼の教育のおかげです。

せめて息子の結婚式まで生きていてくれたら・・。

どんなに彼が幸福だったか・・。

そんな思いを何十年経った今も、思い出すと涙がこぼれます。

人生は一度きり。
長いも短いも一生です。

人は許しあえるはず。
いつもそんな教訓を胸に秘めて彼を思い出します。


大事な1ページ

このブログを始めたきっかけは、

自分が50を越え、はっきりと老いを感じるようになったこと。

人間は老いるものだけれど、
どれほど、老いを現実のものとして受け止められるか。

そういうことを考えながら、
あとどれくらいかわからない生涯を
楽しく、有意義に暮らすために、

今、思うことを書きとめようと思いました。

40才代まではまだ、若いと思い込んでいました。
まだまだ見た目も若いし、独身だし、
花の時代は続くものだと思っていたのです。

けれど思わぬ伏兵がおりました。
更年期です。

人の更年期の話はきいていたけれど、
自分の更年期障害は別の話です。

いろんな症状に苦しめられます。
死滅していく細胞が、如実に皮膚に現れると
気持ちも憂鬱になり、
まるで老婆のような気分になります。

そういう欝と戦いながら、

それでも、大人になってからは自分を不幸なんて思ったこともないし、
むしろ幸せに満ちた人生を送ってきたと思っているので、
今までの出来事をここに書き記したりしています。

ショックな出来事も、そして満たされない想いも、
過ぎてしまえば、人生の大事な1ページなのです。

岐路

人生にはいくつも岐路があって
そこでどっちの道を選ぶか悩むわけだけど、

私はいつも悩んでも人に相談することなく自分で決断していました。

けれど一回だけ、
恋人に相談したことがあります。
それは、その人に自分の夢のお手伝いをしてもらえたら、という
甘い考えがあったのです。

恋人ですから。
甘えてもいいのでは?と思ったのです。

けれど、いとも簡単に言われました。

「自分で決めないと。」

まあ、落胆しましたね。そんなにすぐに言わなくても、
そうだねえ、どうかなーくらい言って欲しかった。

でも、自分の甘さを思い知ったのでほんとに
後で考えたら良かったのです。

結局、いつも自分で決断すれば
後悔なく人生を歩めるのです。

それからは迷うことなく自分を信じ、それが例え他人から見たら間違った道でも、
全然かまわないですね。

マイウエイです。

自分の幸せは何か、といつも自分に問いかけながら
岐路に立つたびに
自分を見つめなおすことになるのです。




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